昭和49年11月01日 月次祭
自分の思う様になると言う事。是は変結構なようで実は結構でない。自分の思う様になると言う事はおかげではありません。思う以上のおかげを頂いた時に、初めて勿体ないまたは有難いという。勿体ない有難い生活が出来る為には、願い以上又は思い以上のおかげになってこなければ、有難いものになってまいりません。もう何もかにも自分の思う通りになる。もうそれこそそれはわがままの元が生まれます。
おごる平家久しからずで、じゅうきゅうならば権力を持って、自分の思う通りにする。自分の気に入らないものはもう殺してしまう。そうしてでも自分の思い通りにする。それは出来ない事はありません。金にものを言わせる。権力にものを言わせる。けれどもそれは長う続きません。同時に有難い事ではありません。勿体ないものでも、なおさらありません。お互い信心をしておかげを受けると言う事は、思いもかけぬおかげ。思い以上の願い以上のおかげが展開してくる。
そこに日々信心も出来んのに、勿体ないおかげを頂いて、有難い有難いの生活が出来るようになるのです。みんなが思うようになったら、さぞ良かろと思ってますね。決してそうじゃないです。そこでですそういう願い以上、思い以上のおかげの頂けれるための信心、又は、修行が必要になってくるのです。思い以上願い以上。そこでこれは世間一般に申しますように、もうこの世は思うようにならんのが浮世だと決めてしまっておる人すらも沢山あります。
どんどろ大師のお芝居の、お弓のセリフじゃないですけれどもね。思うようにならんのが浮世。親が先立ったり子が先立ったり思うようにはならぬ。それが浮世だともう諦め果てれば、それでも良いでしょうけれども、金光様のご信心はそういう諦めの信心ではない。どこまでも有難い勿体ないの生活をさせて貰い。そして御徳を受けてあの世にも持って行け、この世にも残して置けるほどしのものを頂くと言う事が、御道の信心だと私は思います。そこで思うようにならぬ事。
その思うようにならぬ事を大切にしなければいけません。思うようにならぬ事を、勿体ない有難い神様の御働きと信じれた時に、その事柄または、その事情がです。こよない有難いものに感じられてくるようになる。だから稽古はその辺のところが稽古というなら、稽古じゃないでしょうか。それはなるほど商売をさせていただく者は、商売繁盛のおかげを頂いて、沢山な利益も頂きたい。
ですから商売繁盛も願わせてもらうし、儲からせて頂くことも、お願いをするのですけれども。その目的と申しますか目当てと申しますか。その目当てが違ったんではおかげになりません。今日、私は、午後の奉仕をさせて頂いておる時に、何かちょっと傍にあった紙切れに、こう言う様な事を書かせて頂いておった。政治家が自分の名誉のために、商売人が、ただ自己の利益の事のために。
先生例えば御道の先生が、ただ自分の生活のために、食のために教育家学校の先生なんかが、生活のためにの先生であったり、商売人であったり政治家であったりしたのであっては、とうてい人間の幸福というものは得られない。そう言う事を書かせて頂いて、そこに置いたとたんに、久留米の近見市長さんたちが四、五人でお参りになりました。それで私は早速それをです。
今ね私はこう言う事を、今ここに書かせて頂いて、置いたばかりですけれども鉛筆で走り書きしております。政治家が自分の名誉のためにという自分自身の名誉のために、例えば政治家になるというならば、是は間違いだというお話をさせて頂きましたら、そのメモしてるのを、先生それを頂きませんかとこう言う。いや是はあげても良いけれども、ほんなら別に書いてあげましょうと言うて、そこだけを書いて差し上げた。
丁度その時に一緒に、私はお参りしてきておられると思ったんですけれども、これも久留米の商工会議所の会頭をしておられます、リュウトウさんの奥さんがお参りになっておる。それで私は一緒に参られたもんと思っておった。いつも選挙なんかの時には、先頭に立って運動なさる方なんです。一緒にお参りになったと思ったらそうじゃなかった。偶然ここで、お広前で一緒になったというんです。
それでここで一緒になった事を大変喜び合って、あちらの今日は市長さんの奥さんも見えとりましたから、話し合いがあっとりました。丁度その直後でした。熊谷さんが二度目のお参り、お供えを持ってお参りになって見えられた。玄関の所で小倉の富永さんと矢野さんが、あのお参りになって帰っておられる所へ、丁度そこの野口つぁん達が、親子三人で参ってきた。あらご一緒にお参りになったんで。
いやそれがここで丁度、偶然にみんな親戚が一緒になたんですよと言うて言われましたが。本当に神様のお働きとは、不思議なこつですねというわけでした。いや熊谷さん今ね、私も近見市長さんが参って見えた時に、リュウトウさんと近見さん達一行が、一緒になられましてね、神様のお引き合わせと言うか、御働きというか、それこそ、一分一厘間違いのない働きの中に、あぁあってこうあっとる事が分かりますねと言うて言うた事でした。そういう素晴らしいタイミングが生まれてくる。
これは願い以上思い以上です。けれども例えばここで、わざわざお広前で会おうと約束しておっても、何かの都合で事情で、お参りが出来なかったり、お会いが出来なかったりといったような場合も有りますでしょうが。約束を違えた時間を間違えた。あの人はもうあてにならない。もうイライラしてくる、モヤモヤしてくる。ではなくてそう言う様な場合であっても、矢張り神様の一分一厘間違いのない御働きの中にあるんだと信ずる事が信心であります。
願い通、また願い以上又は、願いとは反対の裏腹の事になる。そういう働きの全てが、お取次ぎを頂いて起きて来る事、良い事悪い事皆良いという、一つの金光様の信心させて頂くなら、そういう観念がまず確立してこなければいけません。そこにそれもおかげじゃなと。これも神様のご都合に違いはないという頂き方が出来るのでございます。家庭においても然りです。自分の思うようにしよう。自分の思うようになればニコニコだけれども、思う様にならないと機嫌が悪い。
一人が機嫌が悪いだけなら良いけれども、それこそ周囲一同が気分が悪い。福岡の西原さんが、まだ信心初めの頃に頂かれたお書き下げの中に、きっと西原さん以前は、イライラモヤモヤする方じゃなかったでしょうか。この頃はそんな事は有りません。この頃はもう信心が段々、手厚うなって見えましたからご夫婦仲もよし。この頃からは、親戚中奥さんの里が、志賀島にございます、志賀島ですね。
あちらでそれこそお二人が、段々商売の上にも夫婦関係の上にも、円満になっていかれるのを親戚の方たちが喜ばれるだけではなくて、金光様のご信心を頂くようになって、あのようにと言う事で御座いましょう。是非一遍金光様のお話が頂きたいと言う事になりました。それで、こちらへ、福岡におられるご親戚も、それから志賀島の一門の方たちが全部集まっておられて是非一つ、お話を聞きたいと言う事になりました。
先日そのお届けがありました。まぁこれが先生方誰か来ていただいて、お話をしてもろうて塩梅みに来てもろうて、と言う様なお届けがございましたんですけれども。だから今日はどうでも、嘉朗先生に来ていただこうて嘉朗さんの事です。やはりその人の話を聞いて助かる。又は話を聞いて、腹が決まるほどしの事を言うて貰うたり、話して貰ったりするなら、やっぱり先生と言わなければおられない。ちょいちょい嘉朗さんの話を聞いて、やはり助かっておられる。
だから今日はどうでも嘉朗先生に来ていただいて話を。だから私は本当に簡単に、そんなお家かと思ったら先生行ってみたらたまがりましたち。四階建てのお家なんです。そら、四階建てち、何かしよりなさるとこですかち言うたら、何か旅館かホテルのようなことをなさっておられるのだそうです。そこの一番良い部屋で山海の珍味を出して貰うて、ご親戚の方たちが、みんな集まってお話を聞いてくださると言う様なことでございましたというほどしにです。
最近はおかげを受けておられますから、今はそう言う事ではないけれども。ある時のお参りの時に、神様から私が頂いた事を御神米に書き下げてあげた。何か紙に書いてあげた。それがいわば西原さんの所の御神体とまでなっておる様な感じであります。この頃は大黒様をお祭りされましたから、大黒様それから別に又この頃お宮を迎えてられる訳でもないですから、その私が書いた書き下げを、そこに貼ってそこにいつも御祈念をなさる。その書いてある事が、どう言う事かと言うとね都都逸の文句です。
都都逸の文句でも言うとったっちゃ拝めばいいのです。「ままにならぬと、まま鉢投げりゃそこら辺りはままだらけ。」て書いてある「ままにならぬとまま鉢投げりゃ、そこら辺りはままだらけ」であります。先生これはもう私が一生のお守りのようにして、守らなければならない事だというわけなんです。ですからその事が、いうならば心の掛け守り、それが拝む対象。それを拝まれるたんべんに、自分の心の中を見極めていこうというのであります。まぁ実際そうですね。
思うようにならん。ならんでモヤモヤしよると尚又、思うようにならん事が次々起きてくる。そこでまま鉢の一つも茶碗の一つも投げる様な事にまでなってくる訳ですけれども。それだけで、よかりゃ良いけれどもそれこそ、そこら辺りはままだらけになってしまう。もう、辺り近所が迷惑であります。ですからままにならぬからと言うて、イライラしたり、モヤモヤする様な事では、思い以上のおかげが展開してきません。もうあれが直ぐ癇癪まわすから、もうあれの顔色ばっかり見とかんならんと言う様な事で、皆んながそれを心がけて、ずうっとくれときゃ良いけれども、そんな訳にいけん時もある。またそんな事ではいけません。
昨日大阪から、わざわざ合楽にご参拝に見えとられるご信者さんがあります。綾部さんのご親戚の方なんです。昨日直接ここで綾部さんと待ち合わせて、ご夫婦でお参りになりました。まぁ色々な難儀な問題、又はお伺いごとがあってでございました。それで昨日あちらへ帰られて、今日も昼から綾部さんご一緒でお参りになった。今晩もあそこにお参りになってられるようです。今日昼お参りの時にです。
とにかく以前の叔母様と信心をされるようになって四年半と聞きますが、四年半ご信心を頂かれるようになってからの、日田の叔母様の態度が違う。人相が変わっておられる。これが久し振りにお会いになった、ご親戚の方のお話でした。今日も参って見えてから、第一、私は思うた事はです。あちらの嫁といわゆる叔母様との間にです、嫁がいつも姑親の顔色ば見とらんならんと言った様な雰囲気をサラサラ感じない。
又は姑親が嫁の機嫌ばっかり取っとらんならんと言った様な雰囲気をサラサラ感じない。もう本当に、居り良い、素晴らしい家庭の雰囲気を、信心ちゃ有難いものだという意味の事を、今日、昼参って言ってられます。そういうふうにです。私は、家庭がね、おかげを頂いていくためには、決して自分の思うようにとばっかりのことは無いに違いはありません。うちの嫁後が、まちっと気がついてくれれば良いけれども。
家のお母さんがまちっと寛大であってくれると良いけれどもと言う様な事が、お互いにありましょうけれどもさぁそこが信心です。そしてその事に対してお礼が言えれる信心が段々生まれてきた。今朝からの御理解の中に神様は目にも見えない、耳に聞く事も出来ない。疑えば限りがないのです。ここに神様の姿がある訳ではなし。声が聞こえてくる訳でもないのですから。けれども疑いを去れよと恐るべし、恐るべしと結んでおられます。信心させて頂いてこの世に、神も仏もあるものかという人もあります。
信心はしておっても、まだ半信半疑の人もあります。けれども段々体験に体験を積んで、愈々間違いない神様を信ずるというようになります。皆んながおかげを頂いてやっぱりこの世の中に神様はござらんことは無い、ござるばいという風に分かって言ったんではもろい。なぜかというと今言う、自分の思うようになる事ばかりではないからです。右と願って、反対に左になる様な事があるからです。
だからおかげを信ずると言う事は間違い。そこで今朝から私は神様の御働きそのものを信ずるおかげを頂かねばならんと言う事を聞いて頂いた。神様の働きを信ずるのです。しかもです信心をさせて頂いて、起きてくる事のその全てがです。神様の例えばほんならここに、永瀬格一という総代さんがおられますが、永瀬格一さんの前に起きてくる現れてくる事柄問題は全て、永瀬格一さんに対する神様の御働きなのです。中には損になることもありましょう。
中には自分の悪口のような事になってくるかも分かりません。それを神様の御働きいや、一分一厘間違いの無い神様の働きとして分からせてもらう時に、それが自分に都合の悪い時であろうがです。自分が痛い思いをする事であってもです。それを合掌して受ける心も自ずと生まれてまいります。そういう修行がです段々出来てこなければ、私は思うようにならんこと、その事を大事にする。大切にすると言う事は、神様の願いがそこに成就しておると言う事に他ならないのです。
ある方がある大きな願いをなさいました。熱心に信心ができました。ところが一つも思うようにならない。却って困った結果になってきたりする。そういう方に対しての御理解でしたが、お洋服をミシンで縫うておられるんです。黒い糸がこう上に巻かっているんです。そしてこうミシンを踏んでおると、こうずっと洋服が出来上がっていく。けれどもこの黒い糸がね、段々段々少なくなっていきよる。その少なくなって行く黒の所の糸ばかりを見るとです。
信心しよるのに、どうしてこんなに少なくなるだろうかと言いよるのですけれども。少なくなって行けば行くほどに、こちらの洋服のほうは出来上がっていきよる時なのです。それが出来上がって、袖を通してみなければ、おかげであると言う事が分からんのです。神様のおかげというのは、そうなんです。だから信心しんぼうが要るのです。だから神様の心が分からなければいけんのです。だから神様の御働きと言う事が、本当に分からなければいけんのです。
これだけ参っておるのに、これだけお願いをしておるのに、目の前の糸は段々段々少なくなっていく。こちらに出来上がっていっておる洋服の事が分からない。例えばここに小さい御簾があります。御簾を編む時、あのクツロコというのが、右に左になって行きます。右と願っても左という訳です。けれども御簾そのものは、出来上がっていってる時なんです。その辺の所が、段々分かってくるようになりますとです。ままにならない事も、願いが成就しない事もです、有難いことだと言う事が分かって参ります。
そこでそういうままにならない、自分の思う様にならない様な事柄の中にです。お礼の言えれるような信心が出来た時に、あなたは助かったと言う事が言えるのじゃないでしょうか。思うようにならんからと言うて、まま鉢を投げておったんでは、一生掛かりになった所で、御徳を受ける事は出来ません。私共が本当に助かりたい。真実神様のおかげで助けて頂きたい。それは自分の目の前の一つ一つがです。
成就する事が助かる事に繋がるのではありません。人間というものは、自分の思う通りになりますとです返ってです、それが当たり前のようになり、思うようにならなかったら癇癪が起こり。それこそ権力を持っておれば権力で殺してからでも、自分の思うようにしたいという心が生まれます。権力ででも自分の思うようにしたいと思うのです。そりゃなりましょう。なったからと言うて幸福ではありません。
皆さん今日はね一つ自分の思うようになると言う事が、おかげでないと言う事。信心とは思うと言う事よりもです。願いと言う事よりもです。思い願い以上のおかげになってくると言う事が、本当の神様のおかげであるし、また神様が氏子信心しておかげを受けてくれよと仰るのは、そういうおかげなのです。そのためにはその手前である所の、ままにならぬ時思う様にならない時、癇癪が起こる様な事ではなくて、まま鉢投げる様な事ではなくて、そこをじっと生神金光大神様を唱えながら辛抱をする。
辛抱していっておるうちに、あぁ言わんで良かった、まま鉢投げんで良かったと分かってくるようになります。分かって来る様になるとその向こうに、おかげのある事の体験が生まれてまいります。成程ままにならない事も、神様の特別な御働きである事が分かってまいります。もうそういう体験が積みに積まれて参りますとです。どういう場合であっても、そりゃおかげばのと言えるです。それは神様のご都合に違いはないと言えるのです。そこに、私共の助かりがある。そういう助かりを元にしてです。私は御徳は積み上げていくもんだというふうに思います。
皆さんどうぞ思い通りのおかげと言う様な事ではなくて、思い以上願い以上のおかげが展開してくるおかげを、楽しみに信心させて頂かなければいけません。そういうおかげならばです。神様も喜んで下さるおかげであると同時に、あの世にも持って行けこの世にも残していおけるというほどしの事になってくるのです。思うようにしたい思う様になりたい、そういう願いは捨てなければいけない。
同時にその目当てというものがです。政治家がただ自分の名誉のために、商売人がただ自分の利益の事の為だけに終始する。先生が食のために生活の事の為に、教育であったり、御結界奉仕であったりと言った様な所で、良い子供が育つはずもありません。良い信者が出来るはずもありません。私はね、誰でも名誉も欲しい、お金も欲しい。けれども、目的を間違えてはならない。そこでですほんならここで願われておる所の五つの願い。これはもう御神前に向こうたら、必ず唱えなければいけないという、唱え言葉のように合楽では申しております。
第一何と言うても体の丈夫を願えであります。第二がどうぞ家庭に不和の無きが元と仰るのですから、その元を頂かなければいけません。第三が、親の代よりも子の代、この代よりも孫の代と繁盛していく。いわゆる、子孫繁盛、家繁盛を、本気で願わなければいけません。ただ、願いの目的がです。神様、あなたのお役に立つ私共にならせて頂きたいからの願いである。名誉欲のためではない。ただ、金さえ儲かりさえすれば良いというのではない。
健康にならせて下さいと言うても、健康になったためにかえって、わりわり夫婦喧嘩するなら困った事だ。ですから健康そのものがです、神様に喜んで頂く事の御用が出来る事の為に健康を下さいであり、お金も下さいであり。愈々子孫繁盛家繁盛もです、神様に喜んで頂く氏子一家にならせて頂く事の為の、いわゆる目的をはっきりそこにおいての願いでなからなければならないと言う事になります。
四番目に本当の意味においての御用が出来ますように。御用が私用になっておる。御用、仕事というのは事に仕える事だと言われております。その事に奉仕をすると言う事が仕事の内容でなからにゃいけんのですけれども。ただ名誉欲のために又はお金を儲かる事の為に、それが行使されるならば、これは間違いであることが分かるでしょう。仕事それは事に仕えるのだ。それは神様に先生がここで奉仕をしておるように、形はこうであっても、食べる事の為に座っておったんじゃいけないです。
目的を間違えないでです。目当てをはっきりしてその目当てに向かって、信心が進んでいくというおかげを頂きたい。そういう道すがらその過程においてです。決して願い通りと言う様な事ではなく、いやむしろ願いとは反対の事に成る事の方が多いのだ。けれども多いその事の中にです、千万無量の神様の願いがこめられておるんだと分からせて頂いた時に、その事にも御礼が申し上げれる心の状態。
そういう状態を人が助かった状態だと私は思う。そういう助かった心でです、願っていく。大きく広く願って行く。しかもそれはあなたのお役に立ちたいからの願いであるということになってくるのであります。例えばここにブドウがあります。そのブドウを食べてしまやそれまでです。それを例えば壷の中へ入れる。是が私は信心だと思うです。もうかつがつと言う様な事じゃなくてです。それを蓄えていく。
そしてそれに水を汲んで、それによってぶどう酒を作っていく。いわゆる信心とは有難き勿体なき、恐れ多きというお徳を頂いて行くことなのですから。ブドウをかつがつ食べていくのではなくて、それを壷の中に入れてそして水を入れて、それが発酵してくる。折角発酵してブツブツブツブツ言い出してくる時にです。もうそのブツブツ言う事が一番いけません家庭の中では。何がブツブツ言いよるか。
他んもんにまでそう言う様な心を起させる。そげなこつ言うたっちゃあぁたもうブツブツ言わにゃおられんじゃないですか。もうそこには夫婦喧嘩が生まれる。そのブツブツ言いたい事はあるのですけれども。今こそアルコール分が出来よる時今こそぶどう酒が出来よる時と思うて、ずうっと是を辛抱していくという生き方を一つ身につけていきたい。そしてそれが立派なぶどう酒になった時に、初めて有難き勿体なき恐れ多き。いやブツブツ言わねばならない様な事柄、その事自体がおかげである神愛である。
神様の氏子可愛いという願いが、そういうブツブツ言わなければならない問題でも、またあるという事が分かる。この世に無駄が無いと言う事が分かる。そこに私共の信心による助かった人の姿がある。今日はそこの所を聞いて頂きました。ブツブツいう時にブツブツ言うたら、もうそれでお終いです。折角信心させて頂くのですから、信心は偉くなるためでも、又は賢うなる為でもない。信心は只有難うなる稽古なのです。ですからそのブツブツを言うておったんでは、アルコール分にはならんのです。
有難き勿体なきにならんのです。その有難い勿体ないの時にばです。どういう寒かろうが暑かろうが、その寒さも暑さも感じんほどしの有難い事になってくるのです。有難くならなければ合楽示現活動もまた出来んのです。昨日一昨日でしたか、福岡の川上さんが言うておられました。先生昨日ばかりは、毎日福岡から参ってくる。六人も七人もの方に、示現活動をお話をするけれども、今日はどうもお話をする気が致しません。有難いというものが薄うなっておる希薄になっておる。
どうぞ有難うならせて下さいと言うてお願いをしよったら横の方が、色々反対に話しかけられた。そして私のほうの嫁は何様か拝みますが、その嫁が拝んでくれるおかげで、家が大変具合よういきますと言うお話を聞いた。そのお話を聞いておるうちにです。こらこちらのほうが有難うなってきた。それからまた示現活動が出来た、お話が出来たという話をしておられましたが。
示現活動でもです自分の有難いというものが溢れるようにならなければ、人にお話なんか出来るものじゃありません。その有難くならせて頂くことが目的なのですから。今日のままにならないと言う事が、却っておかげである。ままになるという事はおかげのようであっておかげではない。本当のおかげはままになる以上のままになると言う事。いうならば願い以上、思い以上のおかげになってくると言う事が、おかげだと言う事を聞いていただきました。
どうぞ。